昭和48年5月23日朝の御理解
真の道の心得
『口に真を語りつつ心に真のなきこと』
信心のをさせて頂く者の心得である、同時に戒めでもある、これを守り行じなかれば本当のものになってきません。
真の道の心得と同時にこれだけは云うたりしたりしてはいけないぞ、金光様のご信心してる者はこういうことではいけないぞという神誡です、戒めですから、どうでも守らないといけない。
ところが実際に御道の信心を頂いているからというて「心に真のないことを、が、いくらもありはしないか、口には本当のことを云っているけれども心にはそれと裏腹のようなことはありはしないか、それを厳しく見極めて改めていかなければいけない。口と腹が違う、本当におかげを頂いてありがとうございます」例えば誰しもが日々云う言葉ですけれども、本当におかげを頂いて有り難いと思うておるか、でないとすると「口には真のことを云うてるけれども心に真がないことだ」と思わなければなりませんね。
「おかげを頂いてありがとうございます」とそれが挨拶のように心にはありがたいものを感じていないと金光様の御信心さして頂く者が本気でここん処を心に思い感じていることをそのまま口に出す、出せる人は神様に愛される人だと思いますね。
そこで私は思うんですけれども、信心の心得としてまたは戒めとして、戒めの御教えをこうやって下さっているのですから、別に例えば取り分け心掛けていなくても、自ずと云うことと心の中の事が一つになっているというような在り方が信心が身に付いたことになるのでしょう、信心が身に付くそれは本当に心にもないことを云う人がありますよね、特に挨拶なんかの場合「お宅の赤ちゃんのかわいらしいこと」心の中ではどうして器量悪かひとじゃろかと思いながら口ではそげん云いよると、これなんかはいけないと思うんですけども心にもないことを口の葉に出すということは、やはりいけないことだと思う。
そこで私どもがどういうような状態の時なら、特に心掛けなくても日常生活の上にそれが現されてくるかと云うとです、お道の信心生活はね、日に新た、日々新しいものでありますから朝な朝なが楽しいものに、ということ。朝目覚ましのおかげを頂いて、朝参りをさせていただくと云うことがね楽しいもの、そこからその人の生活が日に新た日々新しいと云う生き方ができる、朝な朝なが楽しいものそういう心の状態の信心をさせていただいている時なら、心に真がないなどは形に表わされません、云いわしません。これは但し昼やら夜ではいけん、朝です、朝の御祈念にお参りさして頂くことが楽しいもの、私は昨日書かせて頂いたが「たのしい」というのを合楽の楽ではなくて、愉快の愉と、「愉快の愉、信心の生活は日に新た日々新しいものであります。朝な朝なが愉しいものです」と文章に書くとそういうことになりまあす。
そういう心の状態で朝のおかげを頂いて、ゆわゆる、朝のお参りが楽しい御理解を頂くことが楽しい、こよない楽しいものにある、そういう心の状態である時なら、神様の御教えが、そう巧まずして行じられる時だと思うですね、「口には真を語りつつ、心に真のなき事」だから自分が今口にしよることは、心にもないことを云よらせんだろうか、果たして心に真のあることを自分は云うているだろうか、と絶えずそのことを思い続ずけると云った事ではなくて、信心が身についている、ありがたいものとして身に付いておる。
「信心は日々が新」と云われるが新なる喜びというものが日々頂けている時なら、決して裏腹なことなどは云うてはいない時だと、行うてはいない時だと、もうそれこそ足の前手の前ということ行うておることも、云うておることも、必ずや神様の御心に叶うような生き方が出来ておる時だと私は今日そういう風に思います。
「口に真を語りつつ心に真の無きこと」信心をさせてだんだん頂きますと神様のお心が分かると同時に自分自身の心が分かる。
昨夜幹三郎が夜の御祈念を当番しておりましたが、皆さんにお話しを聞いてもらってる中に「自分が分かるということは神様が分かるということに通じると意味のことを云ってます、自分自身が分かる。
私も昼そんなことを感じたことを印しておりましたことと合い通じる、自分を知るひとには、お与えがあるそのお与えをいつも過分であります」と受けられる、過分、自分を知るということは、ぎりぎり自分のようなものに、必ず行き当たるのです、自分の相済まない私に行き渡る時に自分を知った事になるのです。
「自分が出来たようなと云う思い」が「自分が出来てないという思い」になって、自分のような自分を知る、そこから勿体無いなあ、どういうものを与えられても分に過ぎたもの頂いておる、そしてありがたい気持ちが生まれてくるのです。
ゆわゆる、おかげの頂き足らんように思うたり、軽蔑して「こんなもの私にくれて」といったように不足不平がなくなります、自分を知るということは、ですから、なるほど神様を知るをいうことになるのです。
与えて頂いているものを過分の物として押し頂いて、頂く事ができる。先ずは自分を
知るということ、その自分を知るためにも、私は朝な朝なの朝参り的信心がいよいよ楽しいものになってくるという信心、そこから生活が確信してくる、生活全体の中にありがたい雰囲気が生まれて来る。
信心の生活は日に新た、日々新しいものでなければならない、否、というよりも、そうならせて頂けるのであります。それこそ朝な朝なが楽しいものになってくる。そこには「口に真を語りつつ心に真のなきこと」と云わしめておられるが、戒められなくても自ずと云うこと行うことが信心の道に叶てくると今日は聞いて頂きました。
いよいよ朝参りが楽しいものになる程しの信心に先ずはならなければならない、そしてぎりぎり自分というものが分かり、全ての事柄や物に対しても、本当に分に過ぎたおかげをいただいて、勿体無いいう心をいよいよ強く作っていかなれればならないと思いますね。 どうぞ。
入力 ひろさき